人間という木

さっき、お昼、食べながら、相方がつけていたテレビのニュース番組を見るともなく見てた。

小池都知事が都民のことを考えるより自分の立場をよくするような動きをしたと、コメンテイタ―の男性が言っていた。

心の中で「こんなことするから女に政治は無理だとか思われちゃうのよね」と考えてた。

ハッとした。

 

小池氏が男性だったら「男に政治は無理」なんて考えなかっただろう。

わたし自身の中に女性を低く見ている部分があるのか。

 

自分と同じような主婦だったり、パートで働いているお母さんなんかのことは、とても共感できるし、低くも高くも見たりしない。

でも、社会的に名声のある女性のことは非難することがある。

才能への嫉妬なのか。

 

広辞苑を開いて「女」のつく言葉を見た。

すごいよ。「女」という字の付く言葉の多くは、これまで女がどれだけ下に見られてきたか、単に男の性行為の相手としか見られなかったかを証明している。

わたしが一番、カチンと着た言葉は「女だてらに」だ。

わたしは実家にいる間、父に何百回、何千回も「女のくせに」と言われてきた。

心の中でその度に父に言い返していた。

「男がなんぼほど偉いんだ」と。

 

あんなに反発していたのに、わたし自身も女性に対して差別してるんだろうか。

 

違うな。

 

わたしは相方に対して「男のくせに」と思ったことが何度もある。働いていたころも「こんなおじさんが一家の大黒柱できるんなら、わたしにだってできる」と思った事もある。

 

差別をしているのではなく、非難しているんだ。

 

でも、広辞苑が証明するように、日本では、いや、世界中で、女性が男性より虐げられてきた歴史がある。

まだ、わたしなんかにはその尻尾がくっついている。

だから、頭では女も男も横一、人間として同じだと考えていても、何かの拍子に「女であること」や「男であること」を非難の表現として使ってしまう。

 

ジャングルにぎっしりと生えてる木もあれば、平原にぽつりと1本の木もある。

どれも木であることには変わりはない。

 

わたしたちは人間という木だ。

見た目や生えている場所が違っても、がんばって生きてるんだよ。