実感と季語

今週のお題「暑すぎる」

前回のお題の「怖い話」で書いたように、温暖化は人間の力で止められるかどうか、ギリギリの線にきている。コロナ禍のように全世界で明らかに被害が出れば、世界で手を取り合って(と信じたい)対抗措置を取る。

しかし、温暖化のように国によって変化の度合いが違うと、足並みがそろわない。

いわゆる温帯と呼ばれてきた地域が亜熱帯化してきてる。

わたしにはどうもしようがない。わたしたちの子孫がこの美しい星に住み続けられるよう、祈るしかない。

 

俳句を始めて3年半ほど。

どの季節もだが、特に夏に強く感じるのが、季語への違和感。

今年の立秋は8月7日だった。立夏は5月5日だったんだよ。

5月から8月初めにかけて夏の季語を使うのは、まあ変だけど結構暑い日もあるので、体感としてそんなにひどくはない。

だが、暑い暑いさなかに、秋の季語を使うのはとてもしんどい。

「残暑」やその傍題の「秋暑し」くらいだけが辛うじて実感できたけど、「処暑」も終わり、もうそれも使えない。

秋といえば「秋めく」「秋澄む」「秋気」「爽やか」「冷やか」などの時候の季語が示すように、ひんやり、すっきりした感触なのだ。

わたしにはそんな実感がまったくない。「秋刀魚」や「蟋蟀」などの動物や「桃」「柿」などの植物でしか詠めないなあ。

 

普通ならまだ学校も夏休み中で、暑さもピーク、まさに「夏、真っ盛り!」なのに。

 

前にも書いたけど、俳句の偉い人たちに是非、お願いしたい。

歳時記全部ひと月、後倒しして、秋は9月初めからにしてほしい。古い暦が歳時記の季節を決めているから、非常に難しことは理解してはいるが、余りにも非現実的すぎる。

 

俳句は今、目の前にあるもの、今、感じていることを詠む詩だ。

想像で書きたくはない。

 

あー!

どうすりゃいいのっ!