フェアー
2日前、相方がソフトボールの試合で大汗、掻いてたころ、わたしはピアノを弾いていた。
わたしの母はバイオリンの音が大好きで(ただ聴くだけだったけど)、色々な演奏会にわたしを連れて行った。父が亡くなった翌年、母が74才の時、クレモナのストラディヴァリウスに、いい音を楽しませてもらったお礼をしに行きたいというので、わたしは旅行社に頼み込んで、クレモナツアーを組んでもらった。わたしもお供でイタリアへ行き、ストラディヴァリウス博物館まで行った という話は前に書いたように思う。
そんな母はわたしにピアノを習わせ、弟にヴァイオリンを習わせた。
どっちも物にならなかったが、わたしは今も時々、ピアノを弾く。
母はクラシック音楽の大ファンだが、見事に古典派とロマン派の音楽しか聴かない。
バロックも何が面白いのか分からないと言う。
ん、多分、母はエモーショナルな音楽が好きなのだろう。
さすがに、わたしも現代音楽は難解さが先にたって楽しめない。
でも、バロックは好きだ。代数を解くみたいにスッキリした曲の組み立てが、熱い夏には清涼感を与えてくれる。
はい、長い説明でした。
で、わたしはあの日、バッハのインベンションやバロックアルバムの楽譜を引っ張り出して、ピアノを弾いていた。
すると楽譜と楽譜の間に袋がはさまっていて、その中に薄い楽譜がいくつか入っていた。それはバイオリンの楽譜とそれのピアノ伴奏譜だった。バッハの「G線上のアリア」、マスネーの「タイスの瞑想曲」そしてヴィターリの「シャコンヌ」。みんなテレビコマーシャルなどでよく用いられる有名な曲だ。
弟のバイオリンの先生が、年に1度の演奏会の子供たちの伴奏を小学生のわたしに頼まれた。弟がバイオリンを止めてからは、わたしの友達でバイオリンを弾く人が何人かいたんだけど、彼女たちをうちに呼んで、アンサンブルを楽しんだ。母が呼んでほしがったのだ。
だから、バイオリンの伴奏譜は沢山あったのだが、15年前の引っ越しの際、ほとんど処分していた。
残っていた楽譜は大学時代の同級生のものだ。彼女はすごい才能の持ち主なのに、極度のへそ曲がりで、音大を受けずに英文科に来た。時々、音楽室で合奏を楽しんだ。彼女が声をかけて先生や学生をアッセンブリーホールに集めて、演奏会をしたこともある。
懐かしくなって、彼女に電話した。年賀状のやりとりさえ、していなかったのだが、電話番号は変わっていなかった。
声は以前通りだった。でも、お義母さんが認知症になって10年以上、家でお世話したせいで疲れ切っていた。お亡くなりになって2、3年経つらしいが、まだ体調が戻らないとのこと。目の調子も悪く、テレビさえちゃんと見えないらしい。「楽譜も見えないから、バイオリンも無理」。そりゃそうだ。
人生は1人1人違う。
同じ年に生まれ、同じような教育を受け、机が隣同士でも、双子でも、人間が違えば、人生は違う。
ひとの人生が羨ましく思える日があった。
なぜ自分だけこんな目にと思える日もある。
みんな、自分の人生はなぜこんなに生きにくいのだろう、アンフェアーだ、と思う。
みんながそう思うことが、フェアーだ。
そうなんだよ。形が違っても人生はフェアーなんだよ。