砂糖

今日は気持ちよく晴れている。

 

子供の時から、雨降りが苦手だった。家にこもって恨めし気に空を睨んでいた。

「遊びにいってらっしゃい」と母に言われても「雨降ってるから」と動かなかった。

すると母が言った。「お砂糖でできてるんじゃないから、溶けませんよ」

 

記憶力が悪くて、昔のこと、ほとんど覚えてないのに、この会話だけは鮮明に覚えている。たぶん、何度か同じ会話をしたのだろう。

 

母は「塩」じゃなくて「砂糖」と言った。母はわたしが女の子であることを喜んでいて、可愛い少女に育ってゆくよう願っていたのではないか。

まあ、少女であったことは間違いないが、可愛くはなかったと思う。

でっかくて(1960年代に、小6で158センチ、48キロあった)、ませてて、口が達者で、ほんと、可愛げのない子供だった。

成長が他の子より早くて、まわりの小学生が幼く見えた。

 

でも、中学から女子ばっかりの学校へ入ったら、わたしくらいの背丈の少女は珍しくなかった。

以後、背は1センチしか伸びなかったのに、体重はどんどん増えた。

健康と言えば聞こえがいいが、ごつい頑丈な身体つきは、わたしの性格をねじくれさせた。開き直りの明るさは、わたしを卑屈にした。

たかが見かけの悪さくらい と今なら思う。しかし、あの頃のわたしには、見た目が全てだった。

 

21世紀の少女たちもたぶん、同じような悩みをもってるんじゃないか。

60才代の今もできるなら、ほっそりとした女になりたい。でも、それは見た目のためではなく、健康のためだ。

 

どんなに美女で、どんなに男性にもてても、幸せな人生でなければ意味がない。

幸せな人生とは納得できる人生だ。人と比べる必要はない。

 

なんて言っても、若いころは、何でもかんでも比べてしまう。

それでいいのかもしれない。

比べ倒して自分の立ってる位置がだんだん、分かってくる。

持っている物、持っていない物。

人の持っている物が羨ましくて、自分の持っている物の価値に気付かない。

みーんな、そうなんだよ。あなたが羨ましく思っている人は、意外とあなたのことを羨んでいるのかもしれない。ないものねだり。みーんな、そうなんだよ。

「たら」「れば」と過去を悔いても戻れないし。

 

わたしの数少ない、よい所は人を羨ましく思わないとこ。

相変わらずの体形で、大した才能もない。お金持ちでもないし、精神的にも強くない。

でも、今の自分で満足だ。この歳でようやく、自分のことが好きだと言えるようになった。たぶん、いじめられたりしたおかげだ。

はあー、長いこと、かかったなあ。

でも、楽ちんになったよ。

 

わたしは家族の反対を押し切って、相方と駆け落ちした。

自分の生き方を通すために、家族に大変な心配をかけた。

でも、他に方法がなかったのだ。

後から出来る限りの謝罪をしたつもりだが、一番の謝罪はわたしが幸せになったことだったのだろう。

 

また、同じように選択を迫られる状況になったら、わたしはまた同じことをする。

1度しかない、わたしの人生なんだから。

 

わたしはやはり、砂糖でできてなかったようだ。