出る杭は打たれる

いつもなら書いている内に内容が出てきて、タイトルは最後なのに、今回はタイトルだけ先に出てきた。

 

午前中にたまたま、というか、テレビがコロナの話ばかりで、胃がぐつぐつしてきたので、にじいろジーンという番組にチャンネルを替えた。ほとんど見たことのない番組だったが、何と最終回だった。その番組で久しぶりにベッキーを見た。彼女は結婚して、お母さんになってた。あの騒ぎから4年らしい。

 

と、ぼーっと見てたら、なぜか「出る杭は打たれる」が出てきたのだ。

彼女はタレントで、女優でもあり歌手でもある、らしい。タレントとしては確かに可愛くて頭も回り話も上手、何を求められているか分かっていて、使い勝手のよい子だっただろうと思われる。だから出過ぎているように見え、面白く思わない人たちもいただろうから、ゲス不倫の時もそこまで言わなくってもと思うほど報道された。

やっぱ彼女は「出る杭」だったのかもね。

 

「出る杭」には「優れて抜け出ている者」と「差し出てふるまう者」とのニュアンスの違う意味がある。どっちにしろ疎まれるのだが、このニュアンスの違いはその人を見ている側の評価の違いだけであって、疎まれる方の責任ではない。

 

わたしのような特別なものを何も持っていない人間をうらやむ人たちがいた。

その人たちの方がよっぽど能力があると思うのに、わたしにきつく当たる。不思議だった。

わたしはその人たちにとって「出る杭」だったのだろう。何故か。

 

その人たちは自分の持っている素晴らしいものが見えず、もしくは見ようとせず、ないものねだりをする人たちだったからだ。

 

わたし自身は「優れて抜け出ている者」ではなかった。「差し出てふるま」ったつもりもないが、なんせジェスチャーも声も大きいので、態度がでかく見えたかもしれない。

でも、わたしの友人やお知り合いは「態度のでかいヤな女」とは思ってないと思う。

わたしは、わたしの小さな世界がどうか少しでも長く、平穏な状態で続きますようにと、祈っているだけの「打たれたくない杭」だ。

 

それにしても「出る杭」を「打つ」人たちは自分のことを誇らしく思えるのだろうか。