大黒柱
わたしが働いていた40年も前のころの出来事だ。
わたしの勤務先は自分の会社ではなくよその会社の大阪の駐在席だった。緊急の仕事が多く時間に追われていた。コンピューターが仕事に使われるようになる前だったので、タイプライターや和文タイプが書類を作成する手段だった。
うちの駐在席ではトレーシングペーパーを何枚もはさんだフォームにタイプで必要な事項を打ち込み、オリジナルを人が電車で大阪や神戸のうちの会社へ運び、書類によっては、またそれを必要な役所へ提出しにいかなければならない。だから書類を運ぶためだけのおじさんが日に2回、来てくれた。太公望で釣りの話が大好きなおじいさんだった。
わたしが神戸支店に電話するといつも出る、うちの駐在席の担当のおじさんがいた。
いつもぐちぐち文句を言う人で、もともと苦手なタイプのおじさんだった。
ある日、書類運びのおじさんが終わってから、どうしても神戸の役所を通さなければならない仕事が出来た。神戸支店のおじさんに急いで連絡すると「えー、またかいな。あんたんとこはいつもド緊急ばっかりやなあ。今から走っても間に合うかどうか、わからんで」と言う。この人に言い返す時間がもったいない。「もう、あなたには頼みません。わたしが直接、役所まで走ります」ガシャンと電話切ると、ボスに「わたしが自分で持って行きます」と言って、地下鉄や電車を乗り継ぎ、時間内に書類を提出した。
駐在席に帰ってボスに「何ですか、あの人。こっちだって緊急でたいへんなのに、全然わかってない。あんな人に奥さんや子供がいて、一家の大黒柱が出来るんなら、わたしにだってできる」と言うとニヤニヤ笑っている。うちのボスは笑顔のいい穏やかな人だったが、いざ仕事となると鬼だった。わたしが泣こうがわめこうが「行け」で終わり。同じ会社でもいろんなタイプの人が働いている。
わたしが結婚するとき、結婚届の保証人はボスだった。わたしを心配して迷って下さっている奥さんを説き伏せ、2人のサインと判子をいただいた。ボスはわたしよりうちの相方を気にいっていたのだ。
まあ、その結婚で退職した後、ボスの話によると、例の神戸支店の人はわたしが結婚して辞めたときくと「ようやく辞めよったんか。よう結婚できたなあ」と言ったらしい。
今ならセクハラで訴えてやるってとこだけど、まあ他の男性社員の中にはわたしを高く評価して可愛がって下さった方もいたんだ。
それからは専業主婦。というほどのご立派な主婦ではなかったけど。
わたしは仕事が好きだった。本当は続けたかったのだ。でも、相方に前妻との女の子がいたので仕事を辞めた。わたしの母が専業主婦でずっと家にいて、ただいまって帰るとおかえりと迎えてくれた。母親っていうのはそういうものだと思い込んでいたのだ。
仕事を辞めたことは今も心の隅に何かちょっとひっかかってるとこがある。
でも、わたしの場合はあれでよかったんだ と分かっている。
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