差別用語
少し秋らしくなってきたかな。まだ、紅葉も黄葉もないけれど、パジャマは長袖にして、お素麺は止めてあったかい入麺にしようかなという所。
でも、俳句の世界では11月過ぎに冬になる。
覚えているうちに上高地の句を作っておこう。
散文には子供のころから馴染んでいるせいか、身構えることなくすらすら書ける。
この文章もタイトルも決めずに書いている。
俳句はそうはいかない。決まり事がたくさんあって、身構えてしまう。
わたしは火曜日の句会で「肺病やみ」と言う言葉を使った。わたしの父方の祖母は若い時から結核で、娘である叔母も結核、父と叔父も兵役の検査の時に結核をした後が見つかったらしい。わたしにとって「肺病」は身近で物悲しい響きのある言葉だ。
昨日、先生になぜあの句はダメだったのか質問した。「差別用語」を使っていたからだとおっしゃった。なるほど、そういえばそうだ。いくらわたし自身に差別意識がなくても、読んで不快に思われる方もいらっしゃるだろう。
散文なら言葉を尽くして、くわしく思いを伝えられる。
しかし、俳句は17文字に思いを託さなければならない。
もっと注意深くしなければ と思う。
ますます身構えてしまいそうだけれど、またすぐ忘れてしまう可能性もある。
「差別用語」をタイトルとし、肝に銘じよう。