心の平安
母の葬儀の翌日23日、長女は帰宅するため新幹線に乗った。
しかし、台風15号の影響でほとんど進まず、大阪へ戻ることも出来ず、結局、帰宅できたのは24日の午後だった。
ただ、彼女の乗っていた新幹線は駅で止まったので、翌朝、売店が開き、水や食べ物を買うことが出来、まだ、少しは幸いな方であったが、彼女にはつらい目に合わせてしまった。ごめんね。
相方は葬儀のころから時々脚が痛いと言っていたが、その痛みが日増しに強くなっていた。
25日の日曜の夜、11時過ぎに寝室へ行くと、彼はいつも持っているショルダーバッグをゴソゴソしていた。「何を探しているの?」と聞くと、不明瞭な声で何か言い、寝る前にトイレへ行くと立とうとした。グラグラして危なっかしいのでわたしが支えて行き、用を足し、寝室に戻る際もあまりにも呂律が回らないので「何か薬飲んだ?」と聞くと「まりの安定剤と導眠剤ともう一つ、何か」と言ってベッドに倒れこんだ途端、いびきをかいて眠り始めた。
しばらく様子を見ていたが、声を掛けても返事もせず、眠り続けていた。
わたしは不安になり、悩んだ末、12時過ぎに夜間、休日医療相談室「ファスト・ドクター」へ電話を掛けた。
色々な手続きを終え、順番待ちをして、繋がったのが12時50分ごろ。
お医者様に事情を説明した。先生は「多分、導眠剤と安定剤と同時に飲まれたせいだと思いますが、脳梗塞の可能性もあります。心配なら119へ電話して救急車を呼んでください」と言われた。
相方の所へ戻り、声を掛けたが返事をしない。
思い切って119番に電話をした。
5分くらいで消防車がサイレンを低くして到着した。
大柄な男性が3人、担架を持ってきて下さり、寝室へ入りリーダー格の方が大きな声で相方に「Yさん、聞こえますか」と言った。
相方はぱっちり目を開けて、びっくりした顔をした。
「救急隊員です。分かりますか」とその方が言うと「誰が呼んだんや」と言った。
「わたしよ。あなたの呂律が回ってなかったし、足元もおぼつかなかったから、心配で来てもらったの」
「大丈夫や。脚も右だけ痛くて、ほら、左なら片足で立てる」とベッドのそばで片足で立とうとした。
救急隊の方が「やめて下さい。ひっくり返ったら危ないから」と止めた。
結局、彼が大丈夫だと言うので救急隊員さんたちにお引き取り願った。
わたしが彼らに頭を下げて見送って寝室に戻ると、またいびきをかいて眠っていた。
2時ごろわたしもベッドに入ったが、結局眠れず。
翌朝、相方に「安定剤と導眠剤と、もう1種類、何を飲んだの?」
「脚が痛かったから、痛み止めのロキソニン飲んだ」
そりゃ、そんなのを一ぺんに飲めば大いびきで寝るし、呂律も回らなくなるよ。
相談してからにしてよ。
その日、26日は2カ月に1度の血液検査しに内科へ行く日だったので、ついでに整形外科も受診した。
結果から言えば座骨神経痛。レントゲン取り、右だけではなく、両脚の膝のあたりの骨と骨の間が狭くなっていることが分かった。
「いいお薬があるんですよ。急には効かないが、2,3週間くらいでじわじわ効いてくる。これを出しておきます」
内科の血液検査もこの2カ月の節制で値も下がっていた。内科の先生も前日の話をすると、薬のせいだろうとのこと。心配なら脳の検査、しますがとおっしゃったが、7月初めに脳のMRI撮って異常なしだったので、また今度 ということで。
今日も脚が痛いので、機嫌が悪い。
なのに、彼が監督してるNYチームのソフトボールチームの練習の日だったから、仲の良いメンバーに車で迎えに来てもらい、早朝から出て行ったよ。
母が亡くなっても、わたしの心の平安はまだ訪れない。
見守る
自宅のベッドの上で母は薄目を開け、口をぽっかりと開いていた。
このままで棺に入れられるのだろうかと叔母と小声で話していたら、急に涙が出てきた。
美人で素敵な母だったのに、死はあの優しい口元さえ奪ってしまった。
9月19日、台風14号が来かけた日でよそのお宅の通夜や葬儀が後へずれて、一番早くても通夜21日、葬儀22日ということだった。
92才という年齢では親戚とも友人とも連絡が取りにくく、本当にこじんまりとした家族葬とし、母の妹の叔母と私たち家族と弟の家族だけで執り行われた。
棺に納められた母はうっすらとお化粧をしてもらっていて、目も口も閉じ、口紅も塗ってもらっていて微笑んでいるようにも見えた。
ああ、よかった。ママだ。80才ごろまで、よく笑っていた母の面影がそこにあった。
途端に涙があふれ、止まらなくなった。
お通夜から告別式まで、暇を見つけては母の顔を見に、棺のそばへ行った。
そのたびに泣いた。
よくこれだけ泣けるなと自分でも驚くくらい泣いた。
心の中で母に礼を言いながら。
「ママ、わたしを生んでくれてありがとうございました。お陰でほら、わたし、こんなに幸せな老後を過ごしています。大好きな相方がいて、娘たちやその夫たち、孫たち、みんな元気に暮らしています。そのすべてがママが陣痛微弱で2日掛かりでわたしを生んでくれたことから始まったのです」
母は夫であった父を2003年に亡くしてから、19年間、一人でわたしたちを見守ってきてくれたのだ。
これからは天国で父と二人で仲良く穏やかに暮らして下さい。
今度はわたしが相方と二人で子や孫を見守っていきます。
あなたがそうして下さったように。
お子様ライス
このブログ、大谷君のMLBのライブ、相方と見ている時に、あ、これ、書こうと思ったんだから午後1時半ごろじゃないかしら。
それが4時過ぎちゃったのはくーさん(id:ap14jt56)のせい。
「一語多義の豊かさについて愚考する]というタイトルで、竹西寛子の「古典鑑賞あるいは古典について」の引用から始まる、ちょーむずーいブログを広辞苑片手にがんばって読んだんだ。30分以上かかって、ちょっと分かったような気になって、それから小一時間掛けて、中途半端な知識をひけらかしてコメント書いた。
そしたら、くーさんはお返事を下さって、わたしの間違った所に赤ペンをお入れになった。
あー、恥ずかし。
わたしの今日のブログは、エンジェルスのトラウトの首振り人形が今日のお客さんにプレゼントされるって話から、不二家のペコちゃんの首振り人形を懐かしく思い出したことから始まる。
わたしの父方の祖父は交通事故がもとで60過ぎに亡くなった。わたしが幼稚園の頃で、60年以上前のことだ。
横浜の伯父の家族とうちの家族などで納骨に行った帰りだったと思う。
商店街に不二家のレストランがあり、わたしの背丈程あるペコちゃんが表に飾ってあった。
うちの父は和風の食べ物を好み、たまの外食も和風ばかりだった。
伯父は洋風の好みで、子供もいることだし、ここにしようとみんなで不二家に入った。
そこで人生最初で最後のお子様ライスを食べた。確かエビフライが付いていたと思うけど、しかとは言えない。でも、美味しくて嬉しかったのはしっかり今も覚えている。
それ以降、不二家でケーキを買うことはあっても食事をすることはなかった。
で、そのペコちゃんが首振りだったとずーっと思っていたのだが、さっき調べたら、首振りタイプが出たのは1998年、たった24年前だったんだ。
不二家のペコちゃんは首を振るものだと人生のどこかの時点で思い込んで、記憶まで摺りかえていたみたい。
でも、あの日の不二家のお子様ライスはおいしくて、ペコちゃんは笑顔でわたしたちを迎えてくれたことは間違いない。
ププッピドゥウ
今日はH教室の日で5句出し、並選2,特選1だった。
そして今日もわたしの推しの1句は選から漏れた。
季語は「鰯雲」の傍題の「鱗雲」。秋の空にたくさん浮かんでいる、丸くて小さくて薄い雲。
マリリンのププッピドゥウと鱗雲
マリリンという名前のくるくるした感じと、彼女のプラチナブロンドのカールにププッピドゥウの軽い響き、鱗雲にピッタリだと思った。
先生は「マリリンてモンローか?だったらモンローと書いた方が分かりよい」っておっしゃった。「いえ、あの、そうすると鱗雲の感じから離れる気がして、云々」
わたしの説明を聞いて、先生は「なるほど、そういうことか。知らないと分からんな」
風船から空気がシューって漏れた気持ちがした。
先生だけじゃなくお分かりにならない方が多くて、またまた一人よがりな句だったみたい。
仲良しのSちゃんだけが選に入れてくれていた。嬉しかった。
まだまだ、わたしの修業は続く。
気分転換
今週のお題「キャンプ」
35年近く前、相方の友達家族などと車3台で2時間ほど掛かる、とある川の上流でキャンプをした。まず、パラソルを立てたり、ブルーシートで影を作ったりして、それからバーべキューの火をおこし、食材を焼くまでかなりかかった。
川の水にスイカを浸し、子供たちは浅瀬で遊んだ。
全員に紙皿と割り箸を配り、焼けた肉や野菜、焼きおにぎりなどを食べた。
賑やかで楽しかった。
今でもよい思い出だ。
それから他のメンバーで他の宿泊出来る場所でバーベキューをしたことがあるが、両方とも、バーベキューであってキャンプではない。
キャンプはテントを張って泊まることで、野営って広辞苑に書いてあった。
という訳でわたしはキャンプをしたことがなかったんだ。
テレビでよく見かけるので、したことがあるような錯覚に陥っていた。
今はコロナのせいで、バーベキューどころか外食するのさえ怖々だ。
毎日、相方と二人で、同じテーブルで、同じ食器で、似たような食事ばかり。
で、さっき、ちょっといいこと、思いついた。
今晩はシーザーサラダなんだけど、相方はわたしの席に座り、わたしは相方の席に座って食事することにした。
ちょっとは気分が変わるかも。
中秋の名月
昨夜、2022年9月10日の夜は中秋の名月で、おまけに満月だった。
夕方からそわそわとベランダへ出て空を眺めたが、濃淡の灰色の雲が空を覆っていた。
暗くなってからも、雲の影で月は見えなかったり、見えても一部だったり、ぼんやりだったり。
真夜中近くなってようやく満月全体がはっきりと見えた。
見てはその印象をノートに書くため部屋へ戻り、違う見方はないかとまた出て見て部屋へ戻ってメモを取り、を繰り返した。遠くを見るための眼鏡と近くの字を見たり書いたりするための眼鏡を取り換える必要があるから。
「雪」「月」「花」が三大季語で、秋の季語「月」の傍題は「四日月」「月更く」「月落つ」など49もある。(角川俳句大歳時記)
「名月」も仲秋の大きな季語で、その傍題は「明月」「満月」「望月」「望の夜」「今日の月」「月今宵」「今宵の月」「三五の月」「三五夜」「十五夜」「芋名月」「中秋節」と12もある。
ちなみに「仲秋」も季語で、傍題は「中秋」と「秋半ば」の2つ。
だから1句に「中秋」と「名月」の二つを入れると季重なりとなってしまう。
なんてことを考えながら、ノートに書いては消し書いては消しをした。
今朝になってもまだ推敲を続けていて、何とか形になりそうなのは4句。
でも、まだまだ完成には程遠い。
わたしは吟行へ行って、季節を感じ、季語(動植物や祭り、自然など)を見て詠むのが好きだ。
もちろん時間が限られるので難しいんだけど、季語の方から心に語り掛けてくれることがたまにある。これを捕まえることが出来たら、後は簡単なんだ。
ほんとに、たまにだけど、この瞬間がたまらない。
必ずしもこの句が句会仲間のみなさんから選を頂けるとは限らない。
それでも自分自身にとっては幸せな経験なんだ。
昨夜の満月とはお話できなかったけれど、心に姿が残っている。
出来るだけ写真には残したくないので、ノートのメモと心の中のイメージで、少しずつ形作っていく。
後日、句会に出して選に入ったら、またご披露致しますが、さてさて。