むずっ!

お題「#この1年の変化」

この数週間、ずっと気に掛かっていることがある。

フィクションとノンフィクションだ。

 

フィクションはわかる。作り話だ。想像から生まれた作品だ。

ノンフィクションは史実や記録に基づいた作品、実話だ。

ただし、歴史上の人物が登場し、史実が語られていても、想像上のエピソードが入ると「ノンフィクション・ノベル」と呼ばれるらしい。NHK大河ドラマみたいなやつ。

 

まだまだ細かく分かれていくんだけど、わたしたちの書いてるブログの中身は日記や身辺雑記なので、随筆の仲間に入るらしい。

で、随筆は小説と論説の中間なんだって。

論説というのは筆者の主張を論理的に説明したものらしい。

 

分かる?

何か分かるような、分かんないような。

 

で、なぜかここから、高校時代の現国の授業にわたしの思いは飛ぶ。

 

1970年ごろ、安保問題が毎日、新聞の紙面を賑わせていたころだ。

現国のY先生は異様に茶色い顔をした(ニコチン焼けだという噂がとんでいた)中年男性で、カトリックの女子校によく就職できたなと当時から不思議に思うほど、変わった人物だった。

大体、教科書とはあまり関係のない話をして、1時間終えていた。

その日は突然、新聞の話を始めた。

「例えば、ある日の学生運動を取り上げたA社とB社の2紙があるとする。両社とも、学生と警官が揉み合っている、同じ日の同じ場所の写真を1面に載せたとする。A社は警官が学生を殴りつけている写真、B社は学生が警官に摑みかかっていく写真。新聞の内容を読まなくても、それぞれの新聞社がどういう立場に立っているか、それだけでわかる」

 

昨年からのコロナの件には色々なことが関わり、色々なことが派生してきた。

オリンピックの件もそうだし、今ならワクチンの件もだ。

テレビのニュース番組を見ているわたしには、キャスターがどういう立場に立っているのか、分かりにくいんだ。

単に、わたしがアホだというだけでなく、コメンテイタ―と呼ばれる人たちが様々な個人的な意見をわっさわっさ言うので、番組内で意見がまとまらず、わたしの頭ん中は余計に混乱する。

 

現状の把握をしないと とテレビを見ても、こんがらがるだけ。

 

どうしたらいいんだろう。

 

むずっ。