八百万(やほよろづ)
初めの頃からこのブログを読んで下さってる方々には耳タコだろうけど、わたしは中学から大学まで、女子ばっかりのカトリック系の学校だった。
1番、多感なころに受けた教育がキリスト教のそれも旧教だったことは、現在に至るまでのわたしの人生に大きく影響を与えている。
中学の頃から折に触れ、御ミサがあった。信者の学生はベールを被り、御聖体拝領を受ける。信者でない人は受けられない。
先生方の半数は教員免許を持ったシスターたちだった。
男性の先生はほんの一握り。
どう考えても異様な世界だった。
中学受験で受けるつもりだった学校へは、今でいう偏差値が少し足りなかった。
で、こっちなら間違いなく入れるだろうと、この学校を親が選んだ。
お陰で勉強面では楽で、高校受験もせずにすんだ。
だから、中高時代はホントに本をいっぱい読んだ。
学校の図書室にあるのは、いわゆる文学全集に入ってそうな真面目なのばかりだった。しかたなく、わたしはお小遣いをほとんど、本屋さんにつぎ込んだ。
いや、そんな話ではない。
高校のころは、悩みがあるとチャペルへ行って祈った。
本気で洗礼を受けようかと考えたこともある。
受けなかった最大の理由は、同じ学年の信者たちにある。
カトリックは基本、幼児洗礼だ。
親が信者で、子供が生まれると、自分の行っている教会で赤ちゃんに洗礼を受けさせる。
この、幼児洗礼を受けていた信者たちが実に嫌な子たちだったのだ。
カトリックの学校に信者で入ることがどんだけ偉いのか知らないが、傍若無人で、思いやりに欠ける子が多かった。
あんな風に育つのにカトリックが一枚噛んでるなら、そんな宗教はいらないなと思った。彼女たち、今でも同窓会を牛耳ってる。だから、わたしはわたしの仲間だけで私設の同窓会をしてる。
って、また、話がそれた。
マルクスは「宗教は民衆のアヘンだ」と言ったらしいが、アヘンという言葉をどうとらえるかで、180度、違う意味を持つ。
「人を滅ぼす麻薬」という意味か「痛みを和らげる鎮痛剤」という意味か。
どっちにしても、まあ、必要としない人には関係ないよね。
前にも書いたけど、なぜか日本人には、頭の上はるか上空にいらっしゃるたった1人の神様っていうのはなじまない気がする。
山に川に森に田んぼにいらっしゃる八百万の神の方がしっくりくる。
仏教もよそから伝来してきたものだからね。
でも、仏教は上手によその国の神様を仏像の仲間に加えてお寺に祀ってる。
七福神も阿修羅さんもみんな仲間にしてる。
どうせ神仏混淆だからね。
多くの日本人は特定の宗教を持っていない。
わたしのように、周りに田んぼもない、ほたるも甲虫もお金を出して見たり買ったりする、蚊もアブラムシさえいないマンションの住人でも、街かどのお地蔵さんには手を合わせたくなる。
「血」なんだろうな。
自然を大切にして、営々とお米を作ってきた民族の。