ぎゅうぎゅう詰め
本日は教室の日だった。
5句出しの句会。残念ながら先生の並選1、特選1、互選3だった。
ただ、兼題の「糸瓜」の句を書く際に、9月19日が子規忌だったことを思い出し、正岡子規について調べ、改めて辞世の句も読んだ。
子規忌は糸瓜忌、獺祭忌とも呼ばれている。辞世の句を3句、残している。うちの1句を下敷きに詠んだ。彼の辞世の句を読んで、すぐに頭に浮かんだのだ。
この句に先生の特選をいただき、個性的な2人の先輩からも互選をいただいた。
これが何といっても嬉しかった。子規の辞世の句なんて、百年早いと思っていたので、こわごわ出したのだ。よかった。失礼にならなくて。
選に洩れた3句のうち、銀河の句は互選をいただいたので、先生がものの見事に添削して下さった。こんなに分かりやすい句になるなんて、夢にも思わなかった。
残りの2句は帰り道、仲良くしていただいて、いつも電話で相談にのっていただいているHさんにみてもらった。1句はありきたりだと言われた。もう1句は意味が分からないと言われた。わたしの頭の中にある情景が読み手に伝わらない句だったのだ。
説明をしたらHさんは「ああ、そういうことだったの。でも、この句では分からないわ」とおっしゃった。
わたしにとってこの句の光景は20年くらい前、毎秋、目にしていたものだったので、当たり前になり過ぎて、重要な部分を省略してしまってた。
しかも、たった17文字しかないのに不必要な些末な情報ばかり、ぶちこんでいた。
銀河の句も、亡くなったMさんへの思いをぎゅうぎゅう詰めに詠んだので、分かりづらかったんだ。
自分の句を客観的に見直すのって難しい。
自分がこれはいいぞって思って出しても駄目だったり、逆さまに、なぜこの句がとってもらえたのかと首をかしげることもある。
要するにまだまだなんだ。
分かってるんだけどね。
成績悪いと、やっぱ、落ち込む。