「悲愴」と牡蠣グラタン

母が30年くらい前に作ってくれたカフェエプロンの紐のいつも結ぶ所が、擦れて弱くなってしまった。で、ずっとお蔵入りになってのを、昨日、出してきて、太い糸で補強してみようと考えた。

ミシンは昨年から調子が悪くなってしまったままだった。だから、手でチクチクと縫う事にした。

BGMに何か掛けようと、ふと手にしたのがチャイコフスキーのCDだった。

「弦楽のためのセレナーデ」を聞きたかったのだが、その前に交響曲第6番の「悲愴」が入っていた。面倒くさいのでそのまま掛けた。

陰鬱な導入部で胃と心臓を鷲掴みにされた。今まで何度も聴いていた曲なのに、針を握った手はあまり動かず、結局第4楽章まで聞いちゃった。1964年に録音されたカラヤンベルリンフィル。大げさにならないように神経を隅々にまで行き届かせた上品な「悲愴」だ。でも、作品そのものがエモーショナルなので、抑えれば抑えるほど余計ににじみ出てくる。

チャイコフスキーは1893年夏に作曲し、10月にペテルブルグで自分の指揮で初演し、その直後、コレラで亡くなった。だから、この6番は「悲愴」とよばれてる。

母が以前、こう言ってた。「前に何かの番組でチャイコフスキーのお葬式の様子を見たことあるけど、参列者はみんな唇にキスしてた。コレラだったら、キスなんかできない。おかしい」

チャイコフスキーは同性愛者だったそうだ。失恋による自殺という話を聞いたことがある。

「悲愴」の後に聴く「弦楽のためのセレナーデ」の透き通った明るさよ。こっちは1880年から81年にかけて作曲されたものだ。1877年、チャイコフスキーは結婚の失敗を苦に自殺未遂しているが、その後モスクワ音楽院講師を辞職し、ヨーロッパを転々としていたころの作品だ。ネットって便利。すぐ調べられる。

 

夕方まで「悲愴」を引きずっていたが、夕食にいつものちょっといいお店で美味しいもの食べたら、ルンルンとなった。前回と同じく、山菜の天麩羅も頼んだ。やっぱり美味しかった。寒かったので牡蠣のグラタンを食べた。あっつっつ。で、また、いい句が出来たんだ。

でも、家に帰って、歳時記調べた。やっぱり牡蠣は冬の季語だった。アッチャー!

次の冬まで置いておこう。