俳句とブログ

今週のお題「残暑を乗り切る」を見てつくづく思ったことがある。

俳句よりブログの方が楽しめる。

 

たいていの句会では次の会への「兼題」というのが出る。まあ宿題みたいなもので、季語が一つ、二つ選ばれる。強制ではないが、キャリアの少ないわたしはできるだけ多くの季語を使ってみたいので、すぐに歳時記で調べる。どういう時期に使われ、本意、その季語の持っている意味や方向性、はどういうものか、まず勉強する。それでも、わたしは季語そのものの本意から逸れたり、単なる説明の句を詠んでしまう。

例えば「残暑」も季語だ。秋の初め、八月いっぱいくらいの間、使える。立秋が過ぎてもなお残る暑さのことで、「一度涼しさを感じた後にぶり返す暑さは絶頂期を過ぎたとはいえ、何ともいえぬ疲労感、倦怠感をよぶ」とある。この方向で俳句を詠まなければならない。内心では「九月だってバリバリ残暑じゃん、立秋のころに一度涼しさなんか微塵も感じてないし」と悪態をつく。でも歳時記の方向に沿った俳句を作らなければならない。

ブログのお題としての残暑ならいろんなこと思いつくのに、季語となるとわたしの頭に何も浮かんで来ない。歳時記には錚錚たる俳人たちの36句もの例句が載っている。それらを読むとそっちに引っ張られて、類句を詠みそうになる。

 

もうすでに沢山の「残暑を乗り切る」文章がはてなに届いているのだろう。上手かろうが下手であろうが、人と似ていようが変わっていようが、「今週のお題」と言う言葉と「残暑を乗り切る」話でありさえすれば、平等に載せてもらえる。

ブログには自由がある。この残暑の中、冷房漬けになりながらも家の中で楽しく過ごせているのはブログのおかげだ。感謝している。

 

でもね。やっぱり俳句も面白いんだ。

ブログを書く時に、わたしの頭が勝手にいろんなことを思いつき、いろんな引き出しからいろんなものを引っ張り出すみたいに、いつの日かいっぱい詰まった俳句の引き出しから自由に言葉を出せるようになりたい。

そのために今はやっぱり勉強しないとね。